私自身は他人の評価が気になって仕方がない人間である。気にするあまりに、行動が取れないことがよくあったし、今でもよくある。

他人の評価を気にしても仕方がない、という意見がある。それは真理だと思うが、では「ああそうか、他人の評価を気にしたって仕方がないんだな」といきなりマインドを切り替えることは難しい。その言葉だけで気にせずにいられるようであれば、そもそも悩みはしない。

アドラー心理学に触れてみたりして、なぜ他人の評価を気にすることが無意味なのかという考えを知ることができたが、つい最近「反応しない練習」という本を読んで、その考えを補強するに至った。

「反応しない練習」はお釈迦様はこういうことを伝えたんだという話を噛み砕いた本である。乱暴に言えば。ただそこに宗教色はあまりなく、とても合理的な話だなと感じた。書評も書いてみたんで、まあ気になる人は読んでほしい。

ここから先は本を読んだ上での私の考えなので、それが正しいかどうかは知らないことだし、本の趣旨とはずれているかもしれない。それを踏まえた上で読み進んでいただきたい。

お釈迦様の教えとは、つまり「あなたは何に依拠して生きていくのか」という話なのだと思う。依拠するというのは、私は「物事の判断のベースとなる核」をどこに据えるのかという意味で使っている。

人の心は何にでも反応してしまう。心を動かさないことなど生きている限り出来はしない。心の反応は様々である。自分にとって好ましい反応、誰かを愛おしく思ったり、楽しいと感じたり、幸せを感じたりといった良い面もある。一方で、怒りや憎しみ、マイナスの感情も多く生まれ、そして人はそれに振り回される。

様々な感情が湧いてくるわけだが、果たしてそれは確かなものなのだろうか。それを己の確固たる足場としてしまって良いのか。本では「それって妄想なんじゃないの」と切り捨てていて、なるほど、そういう考え方もあるのかと思ってしまった。

職場で上司に怒鳴られた。「お前は要領が悪すぎる、だからミスするんだ!」

「はぁ、すみません、気をつけます」と謝りはしたが、家に帰ってからも悶々とする。そもそも指示の仕方が悪かったのだ。確かに私は要領が良くないが、他にもっと言い方だってあるだろう。同僚のA子さんには同じようなミスでも大目に見るのになんで俺だけ。大体あの仕事はもともとB男がするはずだったのに。もうこんな仕事やめよっかな。

とまあ、これは例だけども、こんな感じで心はフラフラと移り変わる。それが妄想なんじゃないのかということが本には書いてあった。

唯一確実なのは、自分の心ではなく自分の感覚である。自分の五感で感じられるもの、温もりだったり花の匂いだったり、それだけは紛れもなく確実なものである。であれば、その確実な感覚こそが信じられるものであり、心に湧いてくる反応に振り回されるのは疲れるだけで合理的ではない、という感じのことを書いているのだなと私は捉えた。

こう書くと、まるで自分の感情を殺せと言っているみたいじゃないかと思われるかもしれない。プラスの感情すら捨て去るのかと。おそらく、悟りを開きたいのであればそういうことだろう。実際、「反応しない練習」では、あなた方は修行僧ではないのだからマイナスの感情に振り回されないようにすればいいだけで、心のプラス面の反応はそのまま受け取ればよろしい、というようなことを言っていた。

話が回りくどくなったが、つまり、自分の心はあやふやで移ろいゆく不安定なものであるということが言いたい。そしてその視点は私にとってはなかなか面白いものであった。

自分の心でさえ不確かで信頼が置けないのに、なぜ他人の意見に依拠できるのだろうか。自分の頭のなかで考えていることすらすぐにぐらつくのに、なぜ他人の評価は絶対だと言えるのか。そう考えると、他人の評価を気にしたって仕方がないというのも納得がいくのではないか。

人の意見に耳を貸すなということではない。そこまで極端なことを感じたわけではない。ただ、自分の心さえ不安定なのだという考え方が、私には真新しかった。そしてそこから、他人の評価を気にしても仕方がないということもそりゃそうだと思えるようになった。だって、もっと身近にある自分の心でさえ不確かなのだから。

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